
金沢城 21城目
目次
金沢城にきました。
これは2015年9月の話です。
小京都、金沢に来ました。
この時は着物に特にハマっていたので
着物でいそいそと出かけたことを覚えています。
そんな着物で頑張った金沢
下駄で2万歩ほど歩きました。
新品の下駄をぼろぼろにしながら頑張りました。
という、自己満足の高い金沢です。
金沢城は石垣の見どころいっぱいです
金沢城は兼六園もありますし
見どころいっぱいです。
この石垣に排水用の穴があります。
これ、他では見られないので
当時の私は興奮して取ったようです。

このように石垣ばかりの地味な写真が続きます。
今回は裏手門から入りました。

裏手門近くの石垣です。
いろいろな形の石をきれいに積んでいます。

金沢城広いんです。

これが橋爪門です。

色々な石をつかっていて見た目も美しいです。

そして、これが六軒長屋です。

金沢城とは
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である
Wikipedia
はい。出ました梯郭式

この真ん中の形です。
櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
金沢の地名は室町時代の文明年間には既に存在していたことが知られている[3]が、尾山御坊時代は金沢の小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあったことから尾山の呼称が使われていた。
佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、前田利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。
だが、金沢の地名が広く知られていたために尾山城の名前は普及せず(豊臣政権の公文書でもほとんど用いられていない)、利家自身も再び金沢の城名を用い始めたと推測されている
豊臣政権時代は「尾山城」だったんですね。
石垣がつづくよどこまでも
これは年代が違う石垣が隣り合せになってます。
違いがよくわかって面白いですよね。

この石垣も違う形を
綺麗に積んでいますよね。

兼六園も行きましたよ
もちろん、兼六園もいきました。

置物かとおもったら
サギがいました。

ポーズを変えて置物じゃないアピール

金沢といえばのどぐろ
城を見た後は
のどぐろを堪能しました。
脂がのっていて美味しいですよね。
金沢は日帰りでしたので
呑気にしすぎて
最終の新幹線に乗りおくれるところでした。
着物で走りましたよ。
今回は、疲れすぎたために
大手門の石垣は見ませんでした。
大手門は次来た時にリベンジです。