二条城の床を鳴らしに行こう

二条城 17城目

 

二条城にキターーーーーー

これは2015年1月の話です。

 

やって来ました。二条城。

この二条城が好きな人も多いはず。

床を鳴らしたい人多いはずです。

 

いやー、造りが素晴らしいですよね。

中を見る前からテンションが上がります。

 

ほらもう門の屋根とかすごいですよね。

 

二条城とは

 

二条城は、徳川家康が慶長6年(1601年)、京都における儀礼施設として築城に着手したそうです。

徳川家康将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。

Wikipedia

そうなんですね。

 

二条城をどんどん見ていこう

 

たしか、当時は中の撮影禁止だったような気がします。

今はどうかわかりませんが。

なので、外側を撮りまくってます。

外から見ても渋い。

庭園からもいい眺めです。

これが車寄せだったかな。

 

城の外からも楽しめます

 

二条城来て、石垣写している人ほとんどいなのではないでしょうか・・・

いろいろな門があります。

二の丸東南隅櫓かな。

そして、外側から見た門

 

ということで、京都来たら見ておきたい

見どころトップ3には入るんじゃなかろうか

と勝手に思っている二条城でした。

 

もう、説明はいりませんよね。

とにかく行ってください。

二条城は何回行っても楽しいです。

 

京都で会席料理食べてきました。

 

京都の嵐山の方にある懐石料理「錦」

こんな素敵なところで

食べてきましたよ。

こんな感じの素敵なお料理がでてきます。

1月に行ったのでお正月らしい感じです。

どれもおいしゅうございました。

もう一度行きたいお店「錦」

お上品なお店でした。

 

行くつもりがなかった本能寺からの清水寺

本能寺 清水寺

 

こんなところに本能寺が!

 

これは2015年1月の話です。

 

ご飯食べようとうろついていたら

あれ?見たことある寺の名前が

歴史習った人ほとんど知っているのではなかろうか

と思われる知名度の寺

本能寺

 

本能寺

ここは移築後なので

ここで本能寺の変があったわけではないが

なんとなく、しみじみ見てしまう。

 

夫の悪い影響を受けている

 

夫は一つのゲームにハマると

ずーーっとそれをやり続ける派です。

そして、昔ハマっていたのが

「信長の野望」

ほんと良くゲームしてました。

(今のバージョンはかっこよくなってる)

 

だからか、その時に出てくる映像で

炎の中だったかな?信長が能を舞うシーンがあるんです。

 

それと本能寺の変がリンクされ

私の中では

「ああ、あの火の中で能を舞っていた時のでしょ」

と間違ったインプットをされております。

 

正しい本能寺の変はWikipedia先生を見てください。

 

京都に来たらなぜか寄ってしまう清水寺

 

京都に来たらなぜが来てしまう

清水寺

なんででしょうかね。

寄りたくなる寺 清水寺

ここからがんばって登って行って

よく写真で見るやつ

この景色

舞台から見るより

こちら側から見る景色のほうが好きです。

 

ほんと、足元の造りとか

見ていて飽きないですよね。

 

お勧め七味家

 

そんな清水寺の近くには

有名な七味家があります

このころは七味にはまっていたので

いろいろなところで七味買ってました。

場所によって七味の中身の割合が違うので面白いですよ。

京都は御出汁の文化だからなのか

七味もやさしいお味。

店内も昔ならではって感じで

渋くていいですよ。

 

 

次回は二条城です。

二条城もいつ行っても素敵。

床もきゅっきゅっ鳴らしてきましたよ。

 

やっと銀閣寺の良さがわかる歳になりました

銀閣寺

 

雪の京都はいいです

 

これは2015年1月の話です。

 

来ました。京都。

雪の京都はいいですよね。

ということで、学生時代には全く良さがわからなかった

銀閣寺に来ました。

 

金閣寺はキラキラして

すごいことはわかるのだけれど

学生時代に見た銀閣寺は

銀じゃないし。黒いし。

と思ってました。

この渋さは大人にならないと

わからないですかね。

 

雪との相性がいい

 

そんな、銀閣寺ですが

雪との相性が抜群です。

寒かったけど

それよりも、雪降っていてよかったと

思える景色です。

 

木の間からとか

ちょっと近くから撮ってみたりして

銀閣寺を堪能しました。

 

初詣は平安神宮

 

そんな銀閣寺を堪能した後は

平安神宮に初詣です。

たしか1月6日ぐらいだったので

もう人が少なくて

ゆっくりとお参りできました。

にしても、広い。

ここが正月のときには

人で埋まるんですよね。

ほんと空いててよかった。

素晴らしい建物です。

いや。美しくってよかったです。

 

京都のお土産と言えば

 

京都に来た時には

絶対に買うお土産があります。

定番の「生八つ橋」

しかも、聖護院の生八つ橋の皮のみのものです。

中身いりません。

あの皮だけ食べたい。

聖護院 生八つ橋

 

しかも、夫のこだわりで

京都本店で買いたいのだそうです。

 

しかし、本当に皮だけでも美味しい。

食べ始めると止まりません。

 

最近、オサレなお土産がたくさんありますが

やはり、これが一番好きです。

 

箕輪城は上級者向け。からの富岡製糸場

箕輪城 15城目

 

箕輪城の見どころが探せない

 

これは2014年10月の話です。

 

やって来ました箕輪城

って、まったく聞いたことがありませんでしたが

群馬県にありますよ。

 

大堀切や土塁、石垣も残っていたようです。

はい。見事に覚えておらず

見たのかなーー?見てないのかなー?

って感じでした。

 

しかも写真がこれだけ

これしか撮っておりません。

 

これしか撮るとこないよ。

と思わせるぐらい

見どころは隠れております。

初心者には見つけにくいです。

石垣もあったはずです。

みなさんは探してみてください。

 

箕輪城とは

 

箕輪城は、榛名白川によって削られた河岸段丘梯郭式曲輪が配された平山城である。

Wikipedia

はいでました。梯郭式。

これの真ん中の形ですね。

 

箕輪城の創築については諸説あるが、戦国時代初期に長野氏によって築かれ、のちに武田氏、織田氏、後北条氏、徳川氏の城となった。

この地は相模の後北条氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏が侵攻をくり返すところであった。

天正18年(1590年)徳川家康から箕輪城を与えられた井伊直政が、城を近世城郭に改築したと伝えられている。

百名城解説より

ということで

結構重要な場所だったようで

城主も代わっています。

なのに今は何にもない。

いやあるけど、ないです。

 

富岡製糸場に行きました

 

その後に富岡製糸場に行ったのですが

特に興味がなかったのは

歴史を知らなかったからです。

 

しかし、建物はすごくよかった。

富岡製糸場。

近くの駐車場を探すのが

意外と大変でした。

 

こんなに大きい建物です。

 

富岡製糸場とは

 

富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な機械製糸[注釈 1]の工場である。

1872年明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。

日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている。

6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった。

Wikipedia

はい。夫大好き、世界遺産なので来ました。

 

富岡製糸場が世界遺産になれた理由

 

富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。

そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。

1893年に三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能した。

第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。

Wikipedia

 

そう。ここ重要です。

片倉工業が保存に尽力したこともあって・・・

とあります。片倉工業ありがとう!

おかげで素敵な建物が私も見れているわけです。

 

歴史は長いので興味がある方はWikipediaで読んでください。

 

造りが面白いのです

 

小屋組は木造のキングポストトラスである

らしいです。

これのことかな。

窓ガラスはおフランスからの輸入品ですし

機械もおフランス製

ものすごくお金がかかっている

施設です。

 

機械が並んでいるのも

圧巻でした。

 

いやー、乗り気じゃなかったけど

行ってよかった。

 

帰りは、近くのおでん屋さんで

卵焼きを買って食べたのが美味しかったです。

 

城よりも富岡製糸場のほうが

記憶に残った日でした。

 

姫路城の天守閣めぐりは大変です。

姫路城 1城目

 

姫路城の天守閣はほんとに広い

 

この旅行は10年以上前に行ったときの話です。

 

天守閣巡りはまだまだ続きます。

こんな太い梁を眺めながら歩きます。

 

大柱の説明がありました。

2本の大柱は全長24.6mあるそうです。

しかも、昭和の大修理で補修しているとのことで

この東の大柱は通し柱だそうです。

すごいですね。

 

西大柱は痛みが激しいので交換することになったのですが

その木材を見つけるのに1年かかったとのこと。

下部は樹齢約780年もの

上部は笠形神社の御神木で樹齢約670年のものを

以前と同じように3階部分でつなぎ合わせているそうです。

御神木まで使うとは・・・

それほどに巨木がなかったのでしょう。

これがつなぎ目ですかね。

 

こういう屋根裏が無駄なく使用されていたんですね。

この木の戸が内室です。

 

そして、ここから

鯱が近くで見れます。

やはり、城と言ったら鯱ですよね。

 

そして、神様も祀られています。

 

ここは最上階。

天守はやっと見終わりました。

 

天守閣からみた城内です。

 

小天守との組み合わせが美しい

 

と思ったら、まだまだでした。

小天守を見て回ります。

 

こんな構造が見られるのも

姫路城ならではです。

大天守に三つの小天守が囲んでいるそうです。

 

そして、これが渡り櫓かな・・・

 

乾小天守とつづきます。 

こんなに大天守が近くに見え

これがお勧めの櫓群のようです。

面白いですよね。姫路城でしか見られない。

 

天守を見終わったからといって終わったわけではない

 

天守を見終わりまして

水三門に来ました。

可愛らしい門です。

 

これがイの渡櫓

 

こちらがほの門です。

小さいけど、頑丈そうですね。

 

天守群です。外から眺めてもすてきですね。

ちゃんと説明がありますので

それを見ながら確認します。

大天守、乾、西の3番目まではいいんです。

そのあとが、ん?どこだ?あれか?それで?・・・

みたいになり、全部を確認するのを断念します。

 

まだ見どころがあって帰れない・・・

 

これがにの門です。

独特な作りをしていますよね。

 

そして、これがはの門です。

ここを行きに通っていれば

もっと速く天守に着いたのに。

 

櫓もいっぱいあるのを忘れてはいけない

 

それから西の丸に行き

百閒廊下です。

蓋してありますが、隙間から石を落とせるようになっています。

 

そして、これは珍しい作りです。

穴が開いているので、そこから水がパイプに流れるのでしょうか。

 

そして、来ました。

長い廊下。百閒廊下です。

こんな風になっています。

 

そして、女性のことを考えた作りです。

うん。ごつい。

 

奥女中がいて、長局といところに住んでいたようです。

長局とは長屋のことだそうです。

渡櫓が長局になっていたんですね。

 

千姫と化粧櫓

 

そして、化粧櫓が見えます。

これが外から見た化粧櫓です。

 

千姫とは徳川秀忠の娘だそうです。

豊臣秀頼に嫁いで、大阪が落城した際に追い出されています。

その後、本多忠則に嫁いだそうです。

しかし、幸せな結婚生活も長くは続かなかったようですね。

こちらは千姫年表です。

年表という文字になぜか拒否感を感じて

全く見る気がしないのはなぜでしょうか。

 

こんな感じなようです。

 

千姫、すごいですね。

7歳で嫁いでいます。

こんな感じで楽しんでいたのでしょうか。

 

化粧櫓からの多聞櫓です。

 

やっと終わりが見えてきました

 

そうして、無事に見回り

菱の門にきました。

内側からだとこんな感じです。

そして、名前の由来になった菱の紋です。

戸が閉まっていても、かっこいいですね。

 

体力に余裕があったら見に行こう

 

そして、こんなところもありました。

天守の庭です。

昭和の天守解体修理のときに掘りだした大天守の礎石が平面展示されています。1601年(慶長6年)~1609年(慶長14年)の築城以来、総重量6,000トンと言われる天守の総重量を支えてきた地盤は徐々に沈下し、礎石は高低差を生じて東南方向に44cm傾斜していました。

そこで昭和の解体修理時に天守基礎にはコンクリートの地盤を埋め、そこに柱を立てることにしたため従来の礎石はすべて取り除かれました。

そこでそれらの礎石をもとの配置で再現したのがこの「天守の庭」です。

姫路城完全観光案内所

 

これであの天守を支えていたんですからね。

すごいですよね。

 

そして、交換した西大柱です。

これが支えていたわけですね。

 

帰りたい気持ちが先走り、石垣はチラ見です

 

後は、石垣をちらっと見て終わりです。

ちらっ。

ちらっ。

 

そして、門をくぐり

桜門橋で終了です。

長かったー。

 

今の大手門は江戸時代と全く異なっているそうです。

なんだか残念です。

 

ということで、長かった姫路城がやっと終わりました。

いやー、写真が多い。

しかし、また行きたいですね。

きれいになった姫路城を町から眺めるのもよさそうです。

 

しかし、体力がない人は休み休み見ましょ。

そして、寒い時期に行く人は

天守閣では靴を脱ぐので、

その上からもう一枚靴下履くなり

スリッパ持参するなりするといいです。

 

足元から冷えますから。

寒くて見るどころじゃなくなりますからね。

 

 

姫路城ってこんなに見どころいっぱいだったけ?

姫路城 1城目

 

ここは最高に見どころがある城

 

この旅行は10年以上前に行ったときの話です。

 

最近は城跡などが多く忘れておりました。

国宝にもなるとこんなに見どころがあるのかと。

しかも世界遺産ですからね。

いろいろあり過ぎて、ある意味疲れます。

 

もう、丁寧な説明とか

私には無理なので

サクサク紹介していきます。

 

ざっと城を見ていきます

 

はい。もうなに門なのかわからない。

しかし、立派な門がでてきます。

 

備前門だったようです。

 

それから井郭櫓

名前が載っているとわかりやすいですね。

 

こんな感じの井戸があります。

 

そして、旧番所です。

上の窓も珍しいそうです。

 

天守のかなり近くまできましたよ

 

見てください。やっとこんな近くまで来ました。

しかし、まだまだ入りません。

もう、天守に行きたい・・・

 

そしたら、こんな門がでてきました。

どこの門よ?と思っていたら

搦手門でした。

中世の置塩城の大手門を移築しているそうです。

そりゃ、りっぱなわけだ。

 

反対側から見るとこんな感じです。

 

お待たせしました。やっと天守閣にはいります

 

はい。来ました。

やっと入ります。

  

はい。どーん。天守閣

ここまでが遠かった。

やっと入れますよ。

 

まずは案内図を見ましょう。

ん?

地下1階の6階建て?

これを周るの?広くない?

 

広すぎる天守閣。まだまだ歩かないといけません。

 

広いだけじゃありませんよ。

更に見るところいっぱいです。

こんな釘隠しや

流しの構造の説明もあります。

 

当時の私は疲れた体に鞭打って

一生懸命頭を働かせたのでしょうが、無理でした。

この写真見てもなーんにも思い出しません。

 

この後は私も新鮮な気持ちで説明を読んでいきます。

 

すごいですね。

籠城も考えて作られていたんですね。

姫路城酒井家の家系図です。

この手は全く興味がないので、興味がある人はどうぞ。

酒井家ってすごいんですね。

藩主を最も長くつとめた大名だそうです。

 

そして、厠です。

現存の城では唯一の厠だそうです。

このトイレもこんなに注目されることになるとは

思ってもみなかったことでしょう。

 

この柱も大きいです。

 

梁がすごいですね。太い。

 

戦に備えた設備

 

武具かけもありました。

こんな感じでかけられていたそうです。

 

戦に備えた設備がいたるところで見られます。

 

狭間、石打棚はこのように使われるようです。

 

そして武者隠し

こんな感じです。

 

ということで、やっと天守閣はいりました。

まだまだ、天守は続きます。

 

姫路城はなかなか天守にたどり着かない

姫路城 1城目

 

坂道が多い姫路城

 

この旅行は10年以上前に行ったときの話です。

 

天守までグルグル回るように向かうのが

有名な姫路城ですが

天守にたどり着くまで坂道

緩い坂道がずーーっと続きます。

 

そんな感じで歩いていると

ぬの門に来ました。

 

ぬの門は重厚でカッコイイ

 

城内で唯一の三層の櫓門で、扉は木部をすべて黒鉄張りにし、太鼓鋲で止めた頑丈な門です。

上部には隠し石落としがあり、門に入る者を監視し撃つことが出来るようになっており、備前丸へ向かう重要な門であることが伺えます。

上の写真より

 

ということでかなり重要な門だそうです。

人が写っていると門の大きさがわかりますよね。

かなり大きいです。

 

この門を通って御殿に行く道を下道というそうです。

はの門からにの門からほの門から天守への道を上道というそうです。

 

地図で見るとこんな感じです

 

〇がぬの門で、今いるところです。

これが上道

 

 

こちらが下道です。

 

そう。そして私たちが選んだのは

下道。遠回りの道です。

上道行けばもっとサクッと天守に着きますよ。

 

振り返って全体像を見てほしい

 

門の全体はこんな感じです。

 

門の左側部分です。

  

ぬの門を通って歩いて行くと

こんな感じの壁が見れます。

 

狭間です。なんだか可愛らしいですよね。

 

天守がこんなに近くに見えているのに

まだ着きません。

 

あの有名な一枚足りない~っていう井戸です

 

一枚~二枚~と数えることで有名なお菊さん。

しかし、ちょっと説明が良くわからないのですが

なんで、町坪弾四郎は恋暮していたのに?

何度読んでも町坪弾四郎の気持ちがわかりません。

 

そんなもやもやを抱きながら

門を通ります。

こんどは小さい門ですね。

 

そしてまた狭間です。

なんだか狭間の写真が多い。

ここの狭間は四角だけですけれども

高さがいろいろですね。

 

はい。そして帯の櫓があります。

こんな感じです。

 

そして腹切丸です。

実際は腹切されたことは無いとのこと。

 

そして石棺です。

古墳の石棺を石垣に使用しているそうです。

こんな感じで使われているのですね。

石も集めるのって大変なんですね。

  

この石棺の写真で思い出しました。

ここに来た時点で私はもう疲れていたということを。

そう、坂道だし、見るとこたくさんあるので

途中でもうぐったりでした。

 

次回もまだまだ天守にはたどり着きませんよ。

 

城巡りを始めるには有名な姫路城から

姫路城 1城目

 

初めては姫路城

 

 

やっと書けます。1城目

これが始まりでした。

 

もう、10年以上前。

懐かしいです。

 

この時はこんなに城巡りに付き合うとは

思ってもいませんでしたし

こんなに大変なんだとも

思ってもいませんでした。

 

夫の戦略

 

城に興味がない。ということで

初心者でも楽しめる城を選んでくれたらしい。

この最初が失敗すると

もう行かない。ってことになりますからね。

夫としては必至ですよ。

 

姫路城は誰もが知っているお城ですし

大きいので見どころありますし

町中にあるので、町から見えるのもいいですよね。

 

ただ、あまりの大きさに

かなり歩きますので、体力ない人は要注意ですよ。

 

広さをみてみよう

 

はい。こんなに広いんです。

そして、こんなに複雑なんです。

広い上に、うねうねと歩かなくてはいけない。

しかも、天守ものぼりますからね

 

きれいに整備された城は

いろいろ見て歩けるので

とてもいいです。

 

しかし、知識が無い私は

すぐに飽きてしまうんですけれども。

 

それでも飽きさせないそれが姫路

 

まずは入ったらこんな感じです。

いいですよね。

城に来ました。って感じです。

 

別名、白鷺城と言われる白いお城。

この時はまだ塗りなおす前なので

そんなに白くありません。

今は真っ白だそうなので、もう一度見に行きたいですな。

 

天守に着くまでが大変な姫路城

まずはこんな感じの門をくぐります。

菱の門です。

ここもいい感じです。

 

案内図を見るとぐるっと回るのがわかるでしょうか。

そして、門が多い。

 

姫路城とはどんな城?

 

姫路城は播磨国飾磨郡[注釈 1]の現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。

江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。

1993年平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された[14]。この他、「国宝五城」[注釈 2]や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。

Wikipedia

 

これを読んだだけでも、

すごいお城なんだろうなって感じがしますよね。

 

明治時代はどうだったのか?

 

明治時代初期に陸軍省の管理下に入ったが、まもなく民間に払い下げとなり、競売で神戸清一郎が23円50銭で落札したが、その後権利が放棄されたらしく国有に戻っている

Wikipedia

 

だそうで、それから修復を行っています。

 

陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などを名古屋城とともに保存する処置が取られ、その後また腐朽が進むと市民の間から両院に修復工事の陳情が行われ、議会の決議により国費9万円をもっての「明治の大修理」が行われた

Wikipedia

 

そう。こういうお城って、修理しようとか

保存するためにって働きかける人がでてくるんですよね。

そうしないと、今は無いわけですからね。

 

今、公開されているのは市民のおかげ?

 

この大修理を機に市民の間から陸軍省から姫路市への払い下げと城を公開にすることを求める声が強まり、姫路市会の決議を経て1914年(大正3年)に軍用地を除き姫路市への無償払い下げが決定し、公開されることなった

Wikipedia

 

この兵庫の人がすごいのか、かなり国に要請してますね。

このころから姫路城は市民に愛されていたのでしょうか。

 

太平洋戦争中には姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。

Wikipedia

 

しかも、これがすごいですよね。

不発弾になったという幸運。

 

そういう風に見ると

更にこの城が現存していることが

有難く感じます。

 

あ、行ったときは知らなかったので

そんな風には思っていませんでしたけど。

 

狭間という言葉は姫路城で知りました

 

このような感じで城を眺めながら

歩いて行きます。

 

菱の門をくぐり

 

門をくぐり

 

はい。狭間がでてきました。

 

姫路城と言えば「狭間」ですよね。

いろいろな所に「狭間」があります。

狭間から覗くとこんな感じです。

 

そして、また門をくぐります。

もう、なに門かはわかりません。

 

そうすると石垣が見えてきます。

さすが姫路城。

石垣の説明も丁寧にしてくれます。

扇の勾配の説明です。

姫路城では、天守台をはじめ主要な櫓台や高い石垣は「扇の勾配」の積み方をしています。この勾配の特色は、石垣の傾斜面を内側に扇を開いた形に湾曲させているもので、こうした傾斜をつけることによって石垣を高く積むことができます。

もちろん、石を高く積むだけではなく、石垣の内側に含む水や土の圧力で、くずれやすくなるのを防ぐねらいもありました。このことは、攻め手がよじ登るのを防ぎ一石二鳥の効果をもっています。

上の写真より

 

という、石垣です。

野面積みの角は算木積みです。

 

このころは、野面積みとか知らなかったですし

まったく興味がなかったなあ。

きれいな石垣ですよね。

 

ということで、次回はたぶん

まだまだ外側の紹介で終わりそうなぐらい

見どころいっぱいな姫路城。

こうやって振り返ってみると

やはり特殊な作りのお城です。

 

彦根城と言ったらひこにゃん

彦根城とひこにゃん

天守閣まで見たら、ひこにゃん待ち

天守閣も見て、あとはひこにゃんが来る時間まで暇つぶしです。

ひこにゃんは人気者なので

スケジュールが決まっています。

 

よくあるお城のゆるキャラのように

ふらふら暇そうにしていません。

 

ということで、その時間つぶしに丁度良かったのが

こちら

何にもないところ

山崎曲輪跡です。

いい広場です。

ここで一息です。

 

やっとひこにゃんに会えます

 

そろそろ時間が近づいてきたので

天守前でひこにゃん待ちをします。

 

その日は学生さんが来ていたので

まあまあ、人数いました。

しかし、一般のお客様のなんと質のいいことでしょう

案内のお姉さん(自称)の指示のもと

静かにひこにゃんを待ちます。

 

人気者は静かに登場

 

そして、やっとひこにゃんが登場

礼儀正しいひこにゃんは

学生さんに深々とお辞儀します。

 

そして、こちらにも丁寧なあいさつ。

 

なんでしょうか、ふなっしーを見過ぎてたのでしょうか?

こんなに慎ましいゆるキャラがいたでしょうか。

 

手の振り方もお上品です。

 

そして、あまり騒がない

お上品なお客様たちです。

 

その後も、ポーズを欠かさないひこにゃん。

これを1日3回いろいろな場所でやるのですから

大変なお仕事です。

 

ひこにゃんは招き猫だそうで

アザラシではないよと説明していました。

自称お姉さんが。

 

 

そんなひこにゃんを見た後は

まだ、終わりません。

今度は庭園巡りが待っています。

 

下りていく時も石垣見ながらが楽しいのです。

こんな素敵な石垣を見ながら

坂道を下りていきます。

連なっているいる石垣がいい。

ここは、出口のところの

お濠と石垣。

素敵な組み合わせが取れる場所です。

 

楽々園と玄宮園

 

彦根城はまだまだ見るところがあります。

まずは楽々園です。

 

現在、楽々園と呼んでいる範囲は延宝5年(1677)に4代直興によって造営されたと伝わる下屋敷の範囲であり、江戸時代には「槻御殿」などの名前で呼ばれていました。この槻御殿は下屋敷であると同時に「隠居所」としても使用され、13代直弼は隠居していた11代直中の子としてこの槻御殿で産声をあげています。

国宝 彦根城

 

こんな建物や

このような建物があります。

この時は丁度

庭師さんが松の剪定をしていました。

手間をかけて、美しさを保っているんですね。

こちらが、楽々園から見た玄宮園です。

 

それでは、隣の玄宮園に行きます。

このような建物などが残っています。

昔は料亭として使われていたようです。

景色が良かったでしょうね。

 

そして、こちらからも彦根城が見えます。

肉眼ですと、もっと彦根城が大きく見えます。

 

ということでやっと彦根城を回りきりました。

広かった。

 

番外編 他にもここに寄りました。

 

そういえば、ちらっと寄ったところがあります。

 

まずは、歴史的に有名な

姉川古戦場

この看板がなければわからない。

道の先はこんな感じで何にもありません。

しかし、姉川古戦場に来たということが

大切ですからね。

 

そして、100名城ではないので

外からの写真だけの

長浜城

豊臣秀吉の出世城として有名だそうです。

 

「豊臣秀吉の出世城」としても知られる長浜城(ながはまじょう)。小谷城の浅井長政を滅ぼした功により湖北三郡を拝領した秀吉は、本拠を小谷から琵琶湖沿岸の今浜に移し、織田信長から「長」の字を賜り長浜と改名した。この地は元々、室町期初期の「婆佐羅(ばさら)大名」京極道誉(どうよ)が出城を置いたところで、今浜氏、上坂氏などが守将を務めた。秀吉の後は、清洲会議で柴田勝家の甥、勝豊が入城するが秀吉に攻められ降伏する。その後は、山内一豊、内藤信成・信正父子が城主となる。元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、その役目を終えた。石垣や建物の一部は彦根城や城下の長浜別院・大通寺、知善院などに移されたと伝わる。

お城めぐりFAN

 

だそうです。

しかし、100名城でなければ

写真も雑ですみません。

昼間はもっとすごいお城だと思います。

 

ということで、

滋賀県の旅行が終わりました。

まだ、安土城とか残っているので

第一弾が終わったという感じですかね。

 

次回は、佐賀県のお城です。